産業医を「当直のない働き方」として知っている医師は多いと思います。ただ、そもそもなぜこの仕事が制度として存在するのかを説明できる人は、意外と少ないのではないでしょうか。産業医の需要がこの先どうなるかは、制度の成り立ちを知らないと読めません。この記事では、収入やなり方より一段手前の「仕組みの話」を整理します。
産業医制度とは、企業に健康管理を義務づける仕組み
産業医制度の根拠は労働安全衛生法です。ポイントは、健康管理の責任を負うのが国や自治体ではなく「事業者」つまり企業だという点にあります。国は自ら働く人を診るのではなく、企業に対して「医師を選任して健康管理をやりなさい」と義務を課す形を取っています。
50人というライン
常時50人以上の労働者を使用する事業場は、産業医を選任しなければなりません。この50人が制度上の大きな分水嶺で、衛生委員会の設置やストレスチェックの実施義務も、同じ50人のラインで発生します。規模がさらに大きくなり1,000人以上(有害業務を含む場合は500人以上)になると、その企業に専属で置くことが求められます。
産業医は「意見を言える」立場にある
産業医は企業に雇われる側でありながら、労働者の健康を確保するために必要があれば事業者に対して勧告できる立場が法律で担保されています。企業の言いなりになる役割ではない、という設計です。もっとも、この権限が実際に使われてきたかというと話は別で、そこが後述する「名義貸し」の問題につながります。
アイジュ
ゆーなぜ国ではなく「企業」が担うのか
背景には、社会保障の財源の問題があります。国は社会保険料の側で対応しきれなくなり、負担を企業側に移し始めている——これが産業医の現場にいる医師の実感です。
近年よく聞くようになった「健康経営」という言葉も、ストレスチェックの対象を中小企業へ広げていく流れも、同じ方向を向いています。医療費を保険診療の枠内で抑え込むのが難しくなった結果、働く人の健康を保険の手前、つまり企業の中で守る方向に重心が移ってきている、という構図です。
この見方に立つと、産業医は「臨床が嫌になった医師の逃げ場」ではなく、社会保障の設計変更にともなって需要が構造的に増えるポジションだ、ということになります。
海外から見ると、日本の仕組みは独特に映る
国によって事情は大きく違います。フランスのように産業保健の制度をしっかり持つ国もある一方で、アジアを中心に、企業に医師の選任を義務づける制度を持たない国は珍しくありません。その場合、従業員の健康管理は福利厚生の一部として扱われ、企業が民間の保険を買って自由診療まで含めてカバーする形が主流になります。
ベトナムで働いていると、日系企業から「産業医の資格を持つ医師はいないか」と聞かれることがあります。日本の本社が求める体制を現地でも作ろうとするからです。実際、日本企業の産業医が年に10社ほど視察に来る、という話もあります。ハノイの日系クリニックと大きい病院を回り、そのままホーチミンやバンコクへ足を伸ばす先生もいるそうです。
つまり、日本の産業医制度は海外に出た日本企業にもそのまま輸出されている。これは日本の仕組みが世界標準だからではなく、日本企業の中でだけ通用する常識が持ち出されているということでもあります。
名義貸しでは、もう通らなくなる
制度が形だけ整っている状態は、長く続いてきました。名義を貸しているだけで実質的な活動がない産業医が、非常に多かったからです。
ただ、国が企業側に負担を移していく流れの中では、この形は維持できません。企業に義務を課す以上、その義務が果たされているかが問われるようになるからです。
ゆー
アイジュそれでも供給は足りない
需要が増えても、供給側には構造的な上限があります。臨床をやりながら産業医をする場合、週1、2日で回せる企業数には限りがあるからです。1社あたりの活動が形だけで済まなくなるほど、1人の医師が抱えられる社数は減ります。
需要が増え、1件あたりの手間も増え、供給には上限がある。だからこの領域には、まだ参入の余地がある——というのが現場の見立てです。10年後には、産業医の資格が要る企業と要らない企業にはっきり分かれるのではないか、という予想もあります。
仕組みを知ると、判断が変わる
産業医を「当直がなくて時間が読める仕事」としてだけ見ていると、単価や案件数の話で終わってしまいます。ですが、この仕事は国が企業に健康管理を預けたという制度設計の上に立っているものです。その前提が動いているからこそ、求められる働き方も変わっていきます。
名義貸しが通らなくなる流れは、実態を持って活動する医師にとっては逆風ではなく追い風です。制度の輪郭を知っておくことは、この領域に入るかどうかを判断する材料になります。